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裁判員制導入後の死刑判決 [日常]

今年の夏以降、裁判員制が導入、開始される。

裁判員制は、地方裁判所における刑事裁判のうち、殺人、放火、強盗致死傷など、一定の重大な犯罪についての裁判について、市民の中から無作為に選ばれた裁判員6名が、裁判官3名とともに事件の審理にあたる制度である。
最高裁や検察庁により、周知のための懸命な広報活動がなされているので、多くの方は概要程度は知っているのではないかと思う。

さて、昨今の被害者重視、治安に対する不安の世論に応える形で、近年刑事裁判における厳罰化が進んでいる。
刑法上の法定刑自体が重く改正されているほか(たとえば、殺人罪は、以前の最低刑は3年以上の懲役だったのが、5年以上の懲役に改正されている)、実際の運用においても判決において言い渡される懲役刑の年数が以前に比べて数割程度増加していることや、死刑の言渡し数が2007年に過去80年間で最高の47件となっていることなどが、統計から読み取れる。

この厳罰化(あるいは諸外国に比して軽すぎた日本の刑罰の適正化)の流れの中、裁判員制が導入される。
そこで、裁判員制が導入された後、厳罰化、特に死刑判決の増加傾向がどうなるかにつき、少し考察してみたい。

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日本における世論の死刑支持は根強く、直近の2004年12月に内閣府により実施された「基本的法制度に関する世論調査」では、死刑に対する世論として、以下のような調査結果が報告されている。

「死刑制度に関してこのような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである  6.0%
(イ)場合によっては死刑もやむを得ない    81.4%
わからない・一概に言えない           12.5%

この調査結果によれば、少なくとも、8割以上の国民は、死刑はやむをえないものとして受け入れているわけだ。
また、感覚的なものとしても、凶悪犯罪の犯人に対して、「あんな奴は死刑にすればいいんだ」という感情を持つ人は多いと思われる。

そうすると、「一般市民の法感覚を刑事裁判に反映する」制度である裁判員制の下では、死刑判決が増えることになるのか。

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そうはならないだろう、というのが今のところの僕の予想。

これは少なくない数の人が指摘していることだが、死刑を言い渡すときのプレッシャーというのは、想像を絶するものがある。
なんといっても、自分の判決で、被告人が国家により強制的にその命を奪われることになるのだ。

もちろん、自ら手を下すわけではなく、実際には判決後一定期間が経過したあとに、法務大臣の執行命令に基づいて刑務官により執行されるわけで、判決と実際の死刑執行との間には大きな時間的、空間的な隔たりがある。控訴審や上告審での判決破棄の可能性などを考慮すれば、さらにその隔たりは大きくなるだろう。

とはいえ、それらはすべて「死刑判決」という大本から始まる因果の流れなわけで、その意味では死刑判決の言渡しは、本質的には被告人に向かってピストルの引金を引くのとかわらない。
前者が、「判決文の作成、言い渡し」→「その後の様々な手続」→「死刑執行」という因果の流れをたどるのに対し、後者が、「ピストルの引金をひく」→「弾丸が飛んでいく」→「命中して死亡」という因果の流れをたどっているだけで、両者の本質的な相違は、「その後の様々な手続」に多くの場合長い時間(場合によっては数十年)がかかるのに対し、「弾丸が飛んでいく」のは一瞬であることくらいだ。

もちろん、ピストルを撃っても弾丸が当たらないこともある。これは、「地方裁判所(第一審)で死刑判決を言渡したが、控訴審や上告審において死刑判決が破棄され、結果として死刑執行に至らなかった場合」、あるいは「執行前に病死など、死刑以外の理由により死亡する場合(実は死刑囚の病死等による自然死はかなり高い割合である)」などに相当するといえるだろう。

人間は、何のうらみつらみもない他人を殺すことに積極的になれるものではない。
もちろん、殺人行為自体を楽しむ快楽殺人者、あるいは「誰でもいいから殺したい」と他人を記号的にしか捉えられない通り魔的無差別殺人者など、例外はある。だが、そのような感覚を持つ人(さらに実際に実行してしまう人)はきわめてまれであろう。

実際、世のほとんどの殺人事件は、金銭や肉体目当、怨恨、証拠隠滅など、なんらかの「理由」があるものだ。客観的には理解しがたい動機であるとしても、少なくとも犯人の主観においては殺人に駆り立てる何かがあるのが通常だ。
また、少し視点を変えて、国家間の大規模殺人の応酬、すなわち戦争においても、「国益の確保」、「国家レベルでの自衛」、」「国家の命令」、「やらなきゃやられる(個人レベルでの自衛)」など、少なくとも当該国家および兵士においては、相手国の人間を殺す理由が存在する。

人間が他人を殺すには、なんらかの「理由」が必要なのだ。

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刑事裁判において、被告人は裁判官にとって、「何のうらみつらみもない他人」である。

もちろん、目の前の被告人は、何かしら犯罪行為を行ったわけで、だからこそ刑事裁判を受けているわけであるが、その犯罪行為そのものは裁判官個人には関係のない話である(万が一、裁判官が事件に少しでもかかわっている場合、そもそもその裁判官は当該刑事裁判を裁くことができない。これを除斥という。公平な裁判の担保のための制度である)。

目の前の人間は、どこかで誰かを殺したかもしれないが、それは裁判官個人にはかかわりのない話である。ちょうど、テレビのワイドショーの殺人事件の特集を見て、「なんてひどい」、「かわいそうに」と憤っている視聴者が、その殺人事件によって何の被害も利益も受けていないのと同じように。

それでも、犯罪行為の内容が、死刑に相当すると判断した場合、裁判官は死刑を言い渡す。

裁判官は、死刑を言い渡すとき、例外なく悩む。
死刑を回避できる事情がないかと、記録を隅から隅まで検討する。
ときには数週間も悩んだ挙句、死刑を言い渡すのだ。

なぜ悩むのか。

もし、目の前の被告人が、裁判官自身の家族全員を殺した犯人だったらどうか。
おそらく、その裁判官が死刑廃止の強い信念を持っている場合でない限り、裁判官が被告人と無関係である場合に比べ、死刑を言い渡すことにそれほど悩むことはないだろう。
この場合、裁判官には死刑を言い渡すべき(あるいは、言い渡したい)「理由」があるからである。
誰だって、自分の家族が殺されたら、犯人を殺してやりたいと思う。これは人間として自然な感情である。

しかし、目の前の被告人が、「自分とは全く関係のない、どこかの知らない人間たち」を殺した犯人だったらどうか。
少なくとも、感情面においては、裁判官はその被告人を殺す理由がない。
もちろん、事件の内容を知り、遺族の訴えを聞いて、義憤を感じることはあるだろう。しかし、義憤のみをもって、他人に死を宣告するほど強い感情を持てる人間はそれほど多くない。

こういう情景を想像してほしい。
目の前に、1人の男が手錠につながれてうなだれている。
記録を見ると、その男は多数の人間を殺してきたらしい。
この男自身はもちろん、殺された人間たちも、いずれもあなたが見たこともなく、聞いたこともない人間である。
この男に対する全ての処分決定権はあなたにある。
あなたが死刑を言い渡せば、男は隣の部屋に連れて行かれ、そこで絞殺される。
男は涙を流し、必死で命乞いをしている。

社会治安の観点から、この男を釈放することはできないことは、ほとんど全ての人で一致するだろう。
では、さらにそれを超えて、この男に死を言い渡すべきなのか。
残りの人生を、牢の中で過ごさせるだけでは刑罰として足りないのか。

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人間は、存在を認識しない他人に対しては、限りなく冷酷になれる。
たとえば、ソマリアで虐殺が起きていたときだって、多くの日本人は無関心だった。
でも、その一方で、いったん存在を認識した他人に対しては、多かれ少なかれ情を持ってしまう。
いくら罪があれど、目の前で泣き叫ぶ人間に対して、眉ひとつ動かさずに死を宣告できる人など、そうそういるものではない。

では、なぜ裁判官は、悩みつつも、死刑相当と考える事件については死刑を言い渡してきたのか。

それこそ、職業裁判官としての責任感、義務感である。
「死の重み」に耐えるだけの、裁判官としての責任感と覚悟。
それが、「判決文による死の宣告」を決断する源である。
この責任感と覚悟は、裁判官として多数の事件を裁き、経験と自覚を積み重ねる中で形成される。

翻って、一般市民である裁判員はどうか。
少なくとも、裁判官に比べて、人を裁くことについての覚悟の程度は低い。
これは、「一般市民を裁判員とする」という裁判員制の制度設計上、当然のことであり、裁判員が悪いというわけではまったくない。しかし、その覚悟の低さゆえに、「死の重み」を受け止めるだけの力は、裁判官に比べて低くならざるをえない。

そのため、裁判官と裁判員から成る刑事裁判における合議体の「覚悟」の程度は、裁判官のみから成る刑事裁判における合議体の「覚悟」の程度に比べて低くならざるをえない

その帰結として、裁判員制度導入後の死刑の言い渡し基準は、導入前と同じか、それよりも厳格になる(死刑判決が少なくなる)方向に行くと考えられる。

おそらく、実際の死刑相当の事案の裁判では、死刑言渡しを躊躇する裁判員を、裁判官が説得するという光景が多くみられることになるだろう。

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命はそれほど軽いものではない。
たとえ重犯罪者の命であっても。

国家により正当化されているとはいえ、死刑判決はまぎれもなく殺人行為の端緒なのだ。

ある日突然警察官があなたの家に知らない男を連れてやってきて、「この男は遠くの街でたくさんの人を殺しました。あなたが罰を決めてください。あなたが死刑といえば、あなたの言葉に基づいて、この男について死刑が執行されます。記録上も、あなたの決定にしたがって、この男には死刑が執行され、死亡したと記録されます」と言われたときに、「じゃ、死刑で」と言えるかどうか。

裁判員制度とは、つまりそういうことだ。

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「裁判官の判決は軽すぎる」
「刑事裁判に一般常識を」

世間では、裁判員制度が導入されると、厳罰化により死刑の増加につながるとみる風潮が少なからずある。

とんでもない。

裁判員となった一般市民は、テレビの前で無責任に「死刑にしろ、あんな奴」と叫んでいたことと、実際に死刑を言い渡すこととの違いを嫌というほど思い知ることになるだろう。

そして、裁判員と裁判官との間で、無期懲役(あるいは創設されれば終身刑)か死刑かの間で長い議論が交わされることになるだろう。

無期懲役を選びたがる裁判員と、死刑を回避すべきではないとする裁判官の間で。

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コメント 5

masakono

なるほど・・・。
仕事中ですが、読みふけってしまいました(笑)。
て、笑い事じゃないですね。
確かに、自分が言い渡すことによって例え凶悪犯であろうとその人の命を奪うことになると考えると、死刑なんて簡単に出せそうにありません。
こればかりは、裁判員になってみないと・・・という感じでしょうか。
by masakono (2009-02-09 14:05) 

Kotty

>まさこの様
コメントありがとうございます。
自分自身の司法修習時代の経験で言うと、死刑だけでなく、懲役刑を言い渡すことも結構な心理的負担があると思います。
懲役は長期間にわたって一定の場所に拘束して身体の自由を奪うわけで、人生の長さが限られていることを思えば、いわば「人生の部分的剥奪」とも言えるためです。

犯罪を犯した人間が罰されるべきことはもちろんですが、実際に刑罰を言い渡す側となると、それほど簡単に決められるものではありません。
裁判員制の導入に伴い、「裁く」というのはそんなに軽いことではない、という認識が広がれば、日本の刑罰の在り方(終身刑の導入、死刑存廃問題)について、もう少し踏み込んだ議論ができるかもしれませんね。
by Kotty (2009-02-09 22:10) 

Tack

はじめまして。「犯罪者の弁護」と今回のエントリを読ませて頂き、共感を覚えました。ネット上に蔓延る犯罪者死すべしの稚拙な論調が、そのまま日本国民の大多数の民意でないことを願ってやみません。

映画「ダークナイト」はご覧になりましたか? ネタバレになるので結果は申し上げられませんが、こういうシーンがあります。
……二隻の客船に閉じ込められた市民たち。かたや一般市民、かたや服役囚。それぞれの船には爆弾が仕掛けられ、それぞれに相手の爆弾を爆発させる起爆装置が渡されました。制限時間が来ればどちらも爆発してしまう。助かるためには押すしかない……
劇中では人心を弄ぶサイコパスの手口として描かれましたが、現実に起こった場合、果たして現代日本ではどのような結末を迎えるのか。興味深いところです。
by Tack (2009-03-20 05:15) 

Kotty

>Tack様 
はじめまして、コメントありがとうございます。

私は特に人権派弁護士というわけではないのですが(たぶん)、なんとなく感じた世論の傾向に対する違和感を書いたことにご共感をいただけたのなら嬉しいです。

個人的には、懲役や死刑を「人間」に対して言い渡すことの重みを認識するという観点から、裁判員制度はいい制度なんじゃないかと思っています。10年、20年経って、裁判員を経験した人の数が増えてくれば、少なくとも被害者でもない人間が安易に犯人に長期の懲役や死刑を求めるような風潮(私は勝手にこの風潮を「全国民検察官化現象」と呼んでいます)は変わるのではないでしょうか。

犯人を非難し、弾劾するのは検察官の役目であって、弁護側には弁護側の言い分があり、それぞれが拮抗して刑事裁判は成り立つのですが、どうもマスコミは自分自身が検察官であるかのような報道をする傾向がありますね。まあ、それもこれも長く続いた被害者軽視の刑事裁判制度に対する揺り戻しなのでしょうが…
(ちなみに、被害者軽視の刑事裁判制度は、人情には反しているものの、刑事手続の制度設計としては別に悪くありません。なんといっても、私的復讐を廃するというのが近代刑事手続の基本原則ですから)

私は特に死刑廃止派というわけではありませんが、少なくとも被害者やその遺族でもない人間が、見知らぬ他人に死を言い渡す前には、一歩立ち止まって考えることが必要であると思っています。
「犯人に死を!」と叫ぶことができるのは、本質的には被害者だけのはずですから。

「ダークナイト」は面白そうですね。
アメリカでもDVDが販売されていますので、今度見てみます。
by Kotty (2009-03-24 17:31) 

yにいみ

新聞を見て一言書きたくなりました。記事には犯行を行った犯人の経歴など一杯書かれていて、さも犯人の今までの生活が大変であったかということが取り上げれれています、同情を引こうという記事ばかりです。新聞は平等でなければいけません。ましてや殺された人にどんな罪があったのかは一切問われていません、犯人の一方的な殺人を正当化するような記事はやめてほしいと思います。
死刑制度がいいとは言えませんが、なぜ人をあやめてはいけないのかを解らない人を裁くのは難しいことですが、人を殺してはいけないことを解らせるためには死刑も辞さないことを知らしめるべきです。
未成年だからいいことではないと思います。今までの風潮で未成年だから人を殺しても死刑にならないから殺してもいいということのないようにすべきと思うます。
by yにいみ (2010-11-26 21:07) 

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