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帰国 [日常]

今日の夜の便で日本に帰国します。

インドという国は最後までどうしても好きになれないところがあったけど、インドで交流を持った人たちは、日本人、インド人を問わず大好きです。

多くの素敵な仲間に囲まれて、本当に楽しく、幸せな時間を過ごすことができました。

このタイミングでの帰国、留学には少し残念なところもあるけれど、とりあえず次の目標に向かって頑張りたいと思います。

インドで学んだことも、自分にできる限りで、多くの人に伝えていくことができればと。

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自分が何者であるかは、自分ではなく周りの人たちが決めてくれること

http://blog.tatsuru.com/2008/04/30_1630.php

  

昔、どうしようもないほど子供だった自分に、同じことを言ってくれた人がいたっけ。

- 僕は、「何者か」になれたでしょうか?


独り言 [日常]

インドから帰る日が近づいてきた。

インドでの9ヶ月あまりの実務経験に基づいて得た知識をもとに、いくつか論文を書いたし、これからも書く予定だ。
日本滞在中は、セミナー講師も多く務めることになっている。

日本ではインドへの投資ブームが高まっており、インド現地の法律事務所で勤務した日本人弁護士がこれまでにほとんどいないということで、現地の法律について語れる日本人弁護士として、日本での需要は高いようだ。
弁護士も客商売である以上、多くの人から自分の知識や経験を必要としてもらえるというのは幸せなことなんだろう。

だがしかし。

最近、自分の中で膨らみつつある矛盾に苦しんでいる。

インドの外為制度や税制、マーケットの実情を知れば知るほど、「この国には投資すべきではない」ということが見えてくるからだ。

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インドの外為制度は、「投資はそこそこしやすいものの、イグジットが非常に難しい」という制度であり、平たく言えば、「インド国内にお金が入ってくることはそれなりに歓迎するが、インド国内からお金が出て行くことは基本的に認めない(認めるとしても、ものすごく厳しい審査が行われる)」というシステムとなっている。

そのため、現状、いったんインドに投資したお金を本国に還流させることは非常に難しく(金額が多額の場合、事実上不可能)、これではせっかくインド国内で収益を上げても、それを日本に還元することができない。
もちろん、インド国内で収益を上げれば、連結会社としてバランスシート上は日本の本社のプラスにはなるが、日本で本社が傾いてもインドから送金できず、インドの収益で穴埋めすることができないというのでは、事実上資金を凍結されているに等しい。もちろん、インド国内での再投資は可能だが、外国に出せないというのでは、資金の流動性は著しく阻害されるだろう。
インドには外資優遇措置が一切ないというのも、直接投資にあたって認識しておく必要がある。

また、インドの税制は、法律、運用ともに、外資系企業にとっては「ぼったくり制度」と言ってもよく、実質負担税率は5割を超えているという状況である。
現地の活動資金のために、日本から1億円を送金しても、半分以上は税金としてインドの国庫に納まってしまうということで、投資効率が悪いことこの上ない。
さらに恣意的な課税、遡及的な課税、いずれも平然と行われており、課税についての予測可能性は全くないと言っていい。

さらにインドのマーケットについて、インドは人口が10億人以上もいて、一見市場規模は大きいように見えるが、まともな購買力を持っているのは、そのうちせいぜい2000~3000万人くらい(いわゆる富裕層と呼ばれる層)であり、後はほとんど期待できない。
この国では、年間20万ルピー(約54万円)程度の収入があれば、「中間層」と呼ばれるのだが、はっきりいって、この程度では自動車や電化製品などの日本の主力製造品の販売先としては全く期待できない。だいたい、この程度の収入の層を「中間層」と呼んでいるにもかかわらず、「中間層」はほとんどいないのだから。

そもそも、仮にこんな「中間層」が1億人いたって、マーケットとしては意味がない。
年間の可処分所得が10万円からせいぜい20万円しかない層を相手に、日本企業が何を売れるというのか。
もちろん、ニッチなニーズはあるのだろうが、それを狙ってまで投資するような場所なのかどうか、真剣に考えている日本企業がどれくらいあるだろうか。
(ちなみに、TATAのnanoを追いかけるのは絶対にやめておいた方がいい。nanoは間違いなく赤字になる。TATAにとって、自動車部門は数ある企業部門の1つにすぎず、そこで単体で赤字を出しても企業のアピール費用と思えば問題ないが、これを日本の自動車専業会社が追いかけるのは自殺行為である)

今、インドで日本の自動車がそこそこ売れているのは、上記購買力のある2000~3000万人の層が買っているからであって、この層が飽和したときには、インドのマーケットとしての魅力は一気に薄れるだろう。
この国の富裕層とそれ以外の層の間の断絶は、日本人が考えているよりも遥かに大きく(この断絶は、中国のものとも比べ物にならないくらい大きい)、日本人が想定している中間層(年収100万円から200万円くらい)など、この国ではほとんど生まれていないし、これからも当分生まれることはないだろう。

他にも、インドが投資先として薦められない理由は多くあるが、最大の理由は、インドは、少なくとも日本企業にとっては、「投資してもペイしない」国であるということだ。
実際、インドに進出している日系企業の99%は赤字を垂れ流している状況であり、黒字を出しているのはマルチスズキやヒーローホンダなど、ごくごく一部の企業に限られている。
理不尽な外為制度や税制等により経費ばかりが増大し、一方でマーケットの開拓はなかなか進まないというのがその理由だ。

マーケットの開拓が進まないのは当たり前だ。
この国のマーケットは小さいのだから。
年収10万円以下のインド人が10億人いたって、日本企業が想定するような製品の購買力としては計算できないのだから、マーケットの観点からは存在しないのと同じだ。
しかも、カースト制度その他の社会制度に基づく、富裕層とそれ以外の層との間の断絶により、これらの「年収10万円以下の10億人」が、今後早い段階で中間層に育っていく可能性も低く、マーケットの成長性も低い。

マルチスズキやヒーローホンダは、きわめて例外的な成功例であり、これを見て単純に「インドは有望なマーケットである」と考えるのはとても危険だと思う。

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以上の分析が、客観的に正しいかどうかはわからない。
ただ、インドの法制度、税制、社会制度、マーケット状況等を知れば知るほど、自分の中では「インドは直接投資の対象国としては不適である」という確信が高まってくる。
少なくとも、自分が会社の社長だったら、絶対に投資はしないだろう。
外資優遇措置もなく、課税は適当、マーケット開拓は困難、せっかく稼いだお金を本国に還流することもできないというのでは、投資効率があまりにも悪すぎる。

インド滞在中に、50社を超える日本企業の現地法人、支店その他に勤務するインド駐在日本人と話したが、多くの人は概ね上記と似た印象を抱いていたので、少なくとも的外れな分析ではないと思う。
ちなみに、インドでの収支についてたずねた際には、例外なく「赤字」との回答が返ってきた。
つまり、インドで儲かっている会社は1社もなかった。

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問題は、「インドには投資しないほうがいい」という確信(直感的確信ではなく、インドの法制度、税制、社会制度、実際にインドに進出した日本企業の収支状況等を踏まえて分析を行った上での確信)を抱いているにもかかわらず、立場上、日本においてはインド投資を促進するような本を書いたり、セミナーを行わなければならないこと。

投資してもペイする見込みがない(あるいはその可能性がとても低い)と確信していながら、インド投資を推奨するような本を書いたり、セミナーを開催したり、インド投資を希望するクライアントにアドバイスすることは、欠陥商品をそれと知りつつ売りつけることと同じではないか。

「依頼者の利益にならないことはしない」というのが、弁護士の行動原理の基本であると思うし、そもそも、「十中八九損をすると確信している行為」を他人に勧めるのは、人間としての品性が問われかねない行為ではないか。

本当は、インド投資など勧めたくない。

「インドは投資してもうかるような国ではないから、やめておいた方がいいですよ」と言いたい。

主観的に「絶対やめておいた方がいい」と思う行為を、他人に勧めることなどしたくない(たとえ自分の主観が、客観的には間違っていたとしても)。

その感情の制御が難しくなってきた。

でも、所属事務所の戦略や、弁護士としてのビジネスの観点からは、これからもインド投資を促進するような本を書いたり、セミナーを行っていかなければならない。

いっそインドが本当に外国直接投資に適した国なら良いのに。

それなら、何の屈託もなく、対印投資を日本企業に勧めることができるはずだ。

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法律コンサルタントとしては、インド進出に際してのアドバイスに対する報酬さえもらえれば、実際にインドに進出した企業が現地で赤字になろうが多大な損失を出そうが、とにかく進出に関するアドバイスはしたのだから、結果については知ったことではない、という立場を取ることも可能だろう。

でも、そういう立場を取ってしまったら、自分の「弁護士」という職業に対する矜持は崩れ落ちてしまうだろう。

自分がこれまでの人生において貫いてきたものも、失われてしまう。

とはいえ、インド進出に関する知識を求める日本企業のニーズがとても高いのも事実。

どうやって折り合いをつけていくのが良いのか。

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とりとめのない独り言。

菩提樹の下で [旅日記]

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ブッダ・ガヤの大菩提寺(マハー・ボーディ)、菩提樹下にて。

ゆっくりと目を閉じる。

安心感と幸福感。

インド国内旅行 [日常]

日本のGWに便乗して、4月30日からインド国内を回ってきます。

日程は以下のとおり。

4月30日  国内便で午後8時ムンバイ発、午後10時デリー着(予定)。デリー泊。

5月1日 早朝、チャーターした車でアグラに向けて出発。同日中にデリーに戻り、デリー泊。

5月2日 午前10時半の国内便で、デリーからバラナシに向けて出発。同日、バラナシ泊。

5月3日 バラナシからブッダ・ガヤに電車(またはバス)で移動。同日中にバラナシに戻り、バラナシ泊。場合によっては、2日にブッダ・ガヤに移動して、ブッダ・ガヤで宿泊するというプランも。

5月4日 午前10時半の国内便で、バラナシからムンバイに。

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アグラでは、タージマハルとアグラ城跡。

バラナシでは、言わずと知れたガンジス河。

ブッダ・ガヤでは、仏陀が悟りをひらいた(と言われている)菩提樹と、そこに建立された大菩提寺(マハー・ボーディ)。

お目当てはこんな感じです。

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5月末で日本に帰国する(6月半ばからニューヨークに移動)というスケジュールを考えると、これがおそらく最後のインド国内の旅行になると思うので、とても楽しみ。

特に、ブッダ・ガヤの菩提樹下は、このブログのテーマとも絡んで、以前からどうしても訪れたいと思っていた場所なので、胸が高鳴ります。



犯罪者の弁護 [日常]

長引く経済低迷(統計的なそれではなく、体感的なそれ)や、社会情勢の不安もあってか、日本社会から寛容さが失われている、ような気がする。

社会から寛容さが失われたときに、真っ先に槍玉に挙げられるものの1つに、弱い者に対する保護策がある。

代表的には、医療費補助、生活保護その他の社会保障制度。

そして、犯罪者の弁護制度もその1つなのではないかと思う。

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「犯罪者=弱い者」という言い方に違和感がある人は多いだろう。

しかし、少なくとも今の日本の社会では、「犯罪者を非難する」という行為が非難されることはない。

裁判で有罪は確定した者はもちろん、逮捕されただけの者(有罪かどうかがまだ確定していない者)に対して、誰がどのようなことを言っても、そのことが倫理的に非難されることはない(裁判所で名誉毀損と認定されることはあっても)。

今の世の中、「いくら非難しても、悪口を言っても、あることないこと言っても、そのことが周囲に非難されない」という対象は、そうそうあるものではない。

こういう存在が、社会が不安になったときに、言いかえれば、社会を構成する人間が不安感を抱いているときに、どういう扱いを受けるか。

格好の攻撃対象、捌け口になるのは避けられないだろう。

その意味で、犯罪者は弱い存在なのだ。

もちろん、罪を犯した者が、その報いとして社会的制裁を受けることはある意味当然であり、社会の構成員から非難を受けるということ自体、一種の罰として機能しているのだから、犯罪者を非難することがいけないというわけではない。

ただ、それでも、最低限守らなければならないルールというのはあると思うのだ。

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曰く、「なぜ犯罪者を国民の税金を使って弁護してやらなければならないのか」

曰く、「弁護士はなぜ臆面もなく恥知らずな主張をするのか」

これらの主張が、すんなりと耳に入って来る人は多いだろう。
いや、ほとんどの人は、全面的に同意するといってもいい。

それは、これらの主張が、

「罪を犯した者が、自分のやったことを差し置いて自分の権利を主張するなんておこがましい」

「それを助けて、人権、人権とばかり主張する人間も信じられない」

という、日本人の素朴な倫理意識に合致するからだ。

いわば、犯罪者の弁護は、本質的に日本社会の構成員によるバッシングを受けやすい行為であるといえる。

今や府知事となった、某弁護士の主張は、この日本人の素朴な倫理意識に合致しているからこそ、支持をうけるのだろう。

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でも、忘れないで欲しい。

これらの主張の行き着く先は、「罪を犯したと疑われる人間は、その言い分を一切聞かずに、行政がその判断で一方的に処分していい」というものになることに。

それは、まさに戦前の警察と同じ発想だ。

忘れてはいけない。 
特高警察をはじめとした警察のやり方は、少なくとも当初は多くの一般市民からは支持されていたのだ。

それはそうだろう。

怪しい人間(社会共同体に害を及ぼしかねない人間)を、一方的に処分してくれるのだから、真面目に生きている人間にとってはこれほど都合のいいことはない。

だが、唯一にして致命的な問題は、「真面目に生きていても、いったん疑われる立場になってしまった場合、犯罪者に対する扱いと全く同じ扱いを受けてしまう」ということ。
そして、いったんそうなってしまった場合、「言い分が一切聞かれない」のだから、申し開きをすることもできない。

こういうリスクの高い社会を、いい社会だと思う人は少ないのではないだろうか。

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以下に、日本国憲法の条文を引用する。

これらの条文は、特高警察に代表される警察の暴走による証拠なき逮捕、拷問による自白(場合によっては死亡)、冤罪での処罰に対する反省から生まれたものであること(たとえ、憲法の原案はGHQによるものであるとしても、少なくとも日本人はこの憲法を60年以上国の礎として守ってきたこと)を思い出してほしい。

そして、特高警察は、戦争中で社会に余裕がなくなったとき、社会から寛容さが失われたときに、生まれたものであることを思い出してほしい。

「犯罪者に権利なんて認める必要はない」という考えは耳になじみやすいが、その発想がいつか自分に対して牙を剥く日がくることを想像してほしい。


第31条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

第34条  何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。

第37条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。

第38条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。


怖ゲー [日常]

昔から、恐怖系のものは駄目だった。

怖い小説を読むと、夜中トイレに行くのが恐くてしょうがなかった。

お化け屋敷も死ぬほど苦手。

ホラー映画は論外。

「怖いことが楽しい」人の気持ちは今でも理解できない。

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日本に帰ってきたときに買ってきたこのゲーム。

夜想曲(リンク先参照)

「弟切草」、「かまいたちの夜」と同じ、いわゆる怖さが売りのサウンドノベル。

大学生のときにプレステ版を友達から借りて、怖いにもかかわらずどっぷりとはまった。

なんというか、怖いんだけど、怖いだけじゃなくてストーリーがしっかりしていて、無闇に怖がらせるだけではないところがとても気に入った記憶がある。

3月に日本に一時帰国した際に、DS版が出ているのを偶然発見して、ついノスタルジー買いしてしまった。

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インドに帰ってきて早速プレイ。

やっぱり怖い。

なんせ10年前に1度プレーしただけのゲームなので、記憶もいい感じで薄れている。

テキストの怖さはもちろん、画像や効果音のタイミングも、怖くて怖くてしょうがない。

たぶん、10年前に怖がった部分と全く同じところで怖がっているんだろうなとは思いつつ。

インドにジャパンの幽霊は出ないだろうとは思いつつ、1人で夜暗い部屋に帰ってくるときに、無意味に恐怖を覚えたり。

でも、先を読まずにはいられない。

それがこの作品の魅力。

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こうして、今日も夜中1人でトイレに行くのに怯えつつ、インドで「夜想曲」にはまっているのです。

留学先決定 [留学準備]

米国コロンビア大学ロースクールへの留学が決定しました。

今年6月末からニューヨークに引っ越します。
インドからニューヨークってのも、ものすごい落差(昇差というべきか)だなあ。

留学先が確定したところで、さっそく学生ビザの申請準備をしているのだけど、これが果てしなく面倒。

大学に必要書類を提出して、Form I-20を送ってもらうだけでもインドからだと色々大変なのに(送金小切手の調達や、銀行の残高証明書(英語版)の調達など、全て日本経由でインドに送ってもらわなければならない)、さらにForm I-20が来たあと、ムンバイの米国総領事館で予約を取ってビザの面接をしなければならず、これがインドだけあって手続きが豪快に面倒。

ホームページでちょっと手続きを見ただけで、あまりの手間に眩暈がする。

http://mumbai.usconsulate.gov/f_and_j_visas.html

だいたいのことが日本語で処理できてしまう日本でも、米国の学生ビザの申請は相当面倒だと聞いていたので、ましてやインドだと…、というところ。

渡米前に日本に一時帰国する日から逆算すると、なんとか5月末にはビザを取っていなきゃいけないんだけど、この国でそこまでたどりつけるだろうか…
最悪、6月に日本で一時帰国したときに無理やり東京で面接を入れてビザを出してもらうという手もあるが。

とりあえず、やれるだけのことはやってみます。

米国LL.M.留学出願結果(米国大学マスターコースとTOEFL点数の関係の考察) [留学準備]

去年(大学によっては一昨年)から進めていた米国LL.M.留学準備。
(※LL.M.とは、大学のロースクールのマスターコースを意味する。Master of Lawに対応するラテン語の省略形)

今年に入って、ぼちぼちと結果が出てきている。

驚くべきことに、ここまで結果が出た大学については全勝。

大学の成績も悪く、TOEFLの点数も足りていないのに、この結果はちょっと驚き。

いったい何が起こったのだろう。
大学の成績なんて、ただごとではないくらい悪いのに(成績表を見せた人全員が、しばらく黙った後、ちょっと言いにくそうに「うーん、確かにあんまり良くないね…」というくらいのレベル)。

インドでの実務経験が評価されたのだとしたら、この苦労の日々も少し報われるかもしれない。

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以下、LL.M.(あるいはMBAその他のマスターコース)の出願における、TOEFLの位置づけについて思うこと。

TOEFL iBTは、スピーキングの壁がとても高く、自分は結局最後まで21点の壁を越えることはできなかった。
20点を取ったことはあるが、その回はリスニングとライティングの点数が悪かったため、出願には使わなかった。出願に添付した回のTOEFLのスピーキング点数は19点。これは、ほとんど全ての大学での最低要求点を下回る点数だ。
もちろん、スピーキングの低点数が響いて、全体の合計点も低くなってしまっている。

が、「スピーキングの必要最低点は25点」と要綱に明記してある大学についても、ものすごくあっさりと合格してしまった。他の似たような科目ごとの必要最低点を設けている大学や、指定合計点数に足りていない大学にも合格。
そんなんでいいのだろうか。
日本人出願者は皆できていなかったから、あまり目立たなかったのだろうか。

個人的に出願時から薄々感じていたこと。

「LL.M.(あるいはMBA等の他のマスターコース)出願において、少なくとも日本人については、TOEFLの点数全般、特にiBT以降のスピーキングの点数はあまり重視されていない」

自分の出願結果を見て、かなり強い確信に変わった。

予想される理由。

1 日本人は米国大学のお得意様

日本から米国の大学のマスターコース(MBAやLL.M.)に留学する人間は、毎年かなりの人数にのぼるはず(正確な人数はわからないが)。
日本人の留学では、企業派遣または自己負担留学であるにせよ、ほぼ100%に近い割合で、学費は全額学生側から支払われている(大学の奨学金制度等は使われていない)のではないかと思われる。
これは、大学側から見れば、「奨学金や学費免除制度を利用せず、学費を全て現金ニコニコで払ってくれる上得意様」ということになる。純粋に大学経営上の見地から見た場合、奨学金や学費免除を利用されてしまうと、その分だけ収入が減ってしまうわけだが、日本人についてはその心配はほとんどない。
そもそも、米国の大学の大学院は、大学の資金集めに利用されているという側面は少なからずある。

もちろん、大学のレベルや名声といった問題もあるので、あまりに能力の劣る人間を合格させるわけにはいかないが、出身大学や職歴等である程度の能力担保が見込める場合は、TOEFLの点数が多少足りなくとも合格させてしまうのではないか。

特に、iBTのスピーキングは、10回近く受けた者の経験として、「帰国子女あるいは留学経験のある者以外の日本人は、22点以上取るのが極めて難しい試験である」という印象を受けている。
要するに、日本で普通に教育を受けた日本人にとって、スピーキングで22点以上取るのはものすごく難しいということ。

今さら言うまでもないことだが、日本の英語教育は、読解と文法に著しく偏重している。
最近でこそリスニングに多少力が入れられはじめたものの、スピーキングの能力を鍛える教育というのは皆無に等しい。そもそも、現場の教師に教える能力がない。
その教育の弊害は、例えば「東大生でさえ、日常会話レベルの英語ができない人間が多数いる」ということに顕著に現れている。東大に入学できる能力と勤勉さを持った人間が、中学校3年間、高校3年間、大学2年間と合計8年間英語を勉強して、それでも英語がほとんど話せないというのは、これはもう教育の欠陥というしかない。

少し話が逸れた。

おそらく、去年TOEFL iBTで出願した日本人の80%以上(もしかしたら90%以上)は、スピーキングの点数が要求最低点に満たなかったはずである(それゆえ、去年は一昨年に受けたCBTや、去年数回日本で開催されたPBTで出願した日本人も多いと聞く)。

ところが、上述のとおり、日本人は大学にとって大事なお得意様である。
これらを、「TOEFLの点数が足りないから」という理由だけで全て落としてしまうと、大学は貴重な安定収入源を失ってしまう。これは経営上ものすごいマイナスだと思われる。
そこで、日本人については、そもそもTOEFLの点数はあまり問題にしないか(これは後記2、3の理由ともかかわるが)、あるいは比較的TOEFLの点にうるさい大学でも、リーディング、リスニング、ライティングといった、他のサブセクションの点数がセクションごとの要求最低点を上回っていれば、スピーキングの点数については大目に見たのではないか。

2 TOEFLの点数がいくら良くても、どうせ日本人はあまり英語ができない

これはiBT以前のCBT、PBTについて特に言えることだが、日本人がTOEFLで高得点を取るわりに実際の授業等では英語が聞き取れていない、また話す能力も低い(そのためにディベートに参加できない)というのは、これまでの日本人留学生の受け入れ経験から、米国の大学ではかなり有名な話である。

そもそも、PBTがCBTに変わり、さらにiBTに変わったのは、PBTやCBTで高得点を取っているにもかかわらず、実際には英語が全くできない学生が多数いることを不満に思った米国の諸大学が、TOEFLを主催するETSに対して、「より実際の英語力を反映する試験方式」への変更を求めた結果であると聞く。
もちろん、「PBTやCBTで高得点を取っているにもかかわらず、実際には英語が全くできない学生」の中には多数の日本人が含まれている。

実際、受験した実感として、iBTはCBTやPBTに比べてかなり実際の英語力を反映する試験だと思う。
リーディングはCBTやPBTに比べて劇的に難化しているし、リスニングはCBTより多少簡単になっているが、問題文が長いので聞き取りのスタミナが試される。スピーキングは出題のしかた(マイクに向かって延々話す方式)に異論はあれど、「英語を話す力」の一側面を図る機能はあると思う。ライティングでは、もちろん書く力(第一問では聞き取る力)が試される。

ただ、そこは「テスト」の限界。
これができたからといって、実際の授業についていけるだけの英語力があることが保証されるわけではない。
日本人は試験慣れしているので、おそらく今年以降は「iBTという試験形式」に順応し、それなりに高い点数を取る者も出てくるだろう。

「TOEFLで良い点を取っていても、どうせ英語ができないなら、あまり点数を気にしてもしょうがない」と考えるのは、米国の大学が日本人出願者を選考する際の考え方としては合理的である。

3 そもそも、出願選考におけるTOEFLの比重が低い

日本人の選考の場合に限らず、一般に米国大学のマスタークラスの出願選考ではTOEFLの点は足切り程度の意味しかなく、要求点数を超えていくら良い点を取っても大した意味はないと言われている。
また、「足切り」といっても、よほど問題外の点数(たとえばiBTで要求点100点に対して70点とか)を取っている場合を除いては、出願書類に目は通してくれるようなので、文字通り「足切り」として出願書類ごと無視されるということはない。

エッセイや経歴、推薦状を見て、「この人、採りたいな」と思った場合、TOEFLの点数が数点足りないというくらいでは落とさないのではないだろうか。

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あと、自分が去年の出願において思ったよりも好結果を得ることができた理由として、去年はiBT施行により、特にスピーキングに苦しんだ日本人がLL.M.留学の出願を控え、相対的に日本人出願者間での競争率が下がったということもあるかもしれない。
別に大学に「日本人枠」があるわけではないだろうが、前年まで一定数採っていた日本人の数を激減させるわけにもいかなかったのだろう。それほど日本人(あるいはその他の外国人)の大学院への入学者数の確保は、大学の経営に組み込まれていると見る。

日本人は生真面目なので、「要綱に書いてあるTOEFL点数を取らないと出願できない(しても足切りで切られて審査さえしてもらえない)」と思って受け控えした人が多かったのではなかろうか。
自分は、色々な都合上、点数が足りてようがいまいが去年出願するしかなかったので、えいやで出願してしまったが、もし年度の選択の余地があればやはり去年の出願は控えたと思う。
実際、TOEFLの点数が足りないことは、合否判定においてマイナスになることはあってもプラスになることはないと思うので、要綱で指定されている点数を取っているにこしたことはない。上で述べているのは、あくまで、「その『マイナス』って結構小さいんじゃない?」という話にすぎない。

LL.M. Guideあたりの掲示板を見ると、ラテン系の国の人なんかは、10点くらい足りなくても平気で出願して、しかも受かっているようだ。
ある意味日本人には真似のできない芸当だと思う。

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なお、以上の米国大学マスターコースとTOEFLの点数の関係の考察は、私個人の米国LL.M.への出願結果を踏まえた上での個人的推測に基づく個人的見解である。
実際に大学にヒアリングしたわけではないし、統計をとったわけでもない。
仮説というのもおこがましい、勝手な思い込みである。
推測とその推測に基づく分析は誠実に行っているつもりだが、この内容を信じて不利益を蒙ったとしても責任は負いかねるので、十分にご注意されたい。


2月14日 [日常]

バレンタインデーが来ると、1人の英雄の死を思い出す。

マルコ・パンターニ。

1998年のダブルツール覇者。

2004年2月14日に、イタリアのリミニのホテルの一室で、孤独のまま薬物中毒死した。

イタリアの英雄がああいう最期を遂げたことに、当時ものすごい衝撃を受けたことを思い出す。

命日は日本人にとって覚えやすい日だった。

自分も含め、これからもバレンタインデーが来るたびに、彼の死が頭をよぎる人がいるのだろう。

山岳の王者への哀悼を込めて。


「紅の豚」を見る [日常]

DVDは持っているのだけど、最後に見たのは2年くらい前。

久しぶりに「紅の豚」を見てみた。
今回は少し趣向を変えて、DVDに入っていたフランス語版で、日本語字幕を付けて。
ちなみに、フランス語の声はジャン・レノがあてていたりする。

やっぱり良い。
何回見ても、最後の加藤登紀子の歌を聴くと、全身に鳥肌が立つくらい感動するのはなぜだろう。

「宮崎アニメの中で何が一番好きか」という質問は、それこそ日本中の色々な人の間で交わされている質問なのだろうけど、もし自分が同じことを聞かれたら、迷わず「紅の豚」と答える。

かなり前に、仕事で宮崎アニメに関する過去の契約書を見る機会があったのだけど、作業分担の際には当然のように「紅の豚」の担当を志願した(もちろん、契約書なので、面白おかしいことが書いているわけでは全くない)。

なぜそんなに好きなのか、と問われると、うまく答えられない。

美学、ノスタルジー、作品全体を包む暖かさといった全ての要素が調和していること。
それだけではなく、主人公が大きな空洞を抱えていること。

先の戦争の英雄が、自分自身を豚に変えるという選択するに至った心境。
その絶望や諦念の深さを想像するだけで、息を呑む思いがする。

「それでも鮮やかに生きる」ことへの憧れ。

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宮崎駿監督が、どこかのインタビューで、「ポルコがジーナの4番目の夫です」と答えたらしい。

大人と子供を区別する基準(もちろん、法的な意味ではなく、精神的な意味において)として、以下を提唱したい。

上記宮崎監督の発言が事実であるとして、「紅の豚」を見終わった直後に、監督の意図がそうであったと聞いて、

・納得、満足、安心といったポジティブな感想を抱く人 → 大人

・「フィオはどうなるの?」と不満に思う人 → 子供

勿論戯言だが、例えば、小学生あたりだと、ほとんど全員後者の感想を抱くんじゃないかと勝手に思っている。中学生だと前者2、後者8くらい、高校生だと半々くらいかな。


花発多風雨 人生足別離 [日常]

年末年始日本に帰ったときの話。

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東京で生活を始めて以来、ずっと髪を切ってくれていた美容師さんのところに髪を切りに行った(インドでは怖くて一回も髪を切れなかった)。

年末でお店をクローズするとのこと。

「今後はどちらに行かれるんですか」
「地元の四国に戻って、自分のお店を開くつもり」

四国は遠すぎる。
お互いにそれはわかっていたのだろう。
自分から新しいお店について聞くことはなかったし、美容師さんもそれ以上の説明はしなかった。

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髪を切った後、近くのレストランにご飯を食べに行った。
行きつけ、というほどではないが、それなりによく通っていたお店。

入店してメニューをもらった際に、「すみませんが、本日で閉店のため、鮮魚系はご注文いただけません」と言われた。

ふと見渡すと、確かに本日で店じまいとの張り紙が張ってある。

あるものだけを注文し、支払いを済ませて店を出た。

店長は深々と頭を下げていた。

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今度日本に帰るときには、また何かが変わっているんだろう。

 


Team Discovery Channel [日常]

ついに解散まで秒読みに入った。

Team US Postal Service 時代のランス・アームストロングを中心とした圧倒的な強さ。

アームストロングが去り、チーム名がDiscovery Channel になった後も、フロイド・ランディス、アルベルト・コンタドールと王者を輩出してきたチーム。
(前者は自らのドーピングで失格、後者は他選手のドーピングで繰り上げ優勝)

過去10年間ツール・ド・フランスを支配し続けてきた、この名チームが解散するしかなかったというのはものすごく残念。
これも時代の流れなんだろうか。

ヤン・ウルリッヒの引退のときに感じた寂しさと同じ寂しさを感じつつ、去り行くチャンピオンチームに敬意を込めて。

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チームの解散に伴い、スキル・シマノに移籍する別府史之選手。
今後とも頑張ってほしい。


日本の平和を言祝ぐ [日常]

いやあ、平和平和。

現職の国会議員がUFOについて質問。

それに対して内閣は、「(UFOについては)『これまで存在を確認していない』とする見解を閣議決定」。

現職の防衛大臣は、「(UFOが)存在しないと断定する根拠がない以上、私自身どうなるか考えたい」。

官房長官に至っては、政府決定に不満たらたらに、「絶対いると思っている」、「そうじゃないと、(宇宙人が描いたとの説もあるペルーの)ナスカの地上絵なんて説明できないでしょ」。

UFOについて大真面目に内閣が閣議決定したこともすごいけど、それに対して現職の防衛大臣、官房長官が、記者会見で「個人的な意見」を発言していることもすごい。

日本の平和と安定を象徴していて、本当にめでたい(結構マジで。)。

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でもね。

外から見ていると、ちょっぴり不安になってしまうわけです。

なんといっても、世界屈指の軍事力を保有する国(行使するかどうかは別問題として)の、現職の防衛大臣の発言。

きっちりと外国でも報道されているわけです。

これを読んだ人間が、日本の政治家、日本の政治、そして日本に対してどういう印象を抱くか。

「お茶目な国だなあ」、と思ってくれれば良いのだけど。

でも、少なくとも官房長官は(たぶん内閣や防衛大臣も)ジョークのつもりはないわけで。

個人として何をどのように信じるかはまさに個人の自由だけど、せめて現職の間くらいは、「日本国の大臣の発言の重み」をもう少し意識すべきではないかと。

あえて閣議決定とは別に「個人的な意見」を述べるべきことなのかどうかの判断も含めて。


橋下弁護士への懲戒請求に対する同弁護士のコメントにモノ申す [日常]

何だかやたらと長いタイトルになりましたが、今回は、12月17日に約340人から所属先の大阪弁護士会に懲戒請求をされた橋下弁護士のコメントを取り上げたいと思います。

少し長くなりますが、以下にニュース全文を引用します(引用元はYahooニュースです。)。

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橋下氏に340人が「逆」懲戒請求 光母子殺害めぐり
12月17日22時35分配信 産経新聞

 大阪府知事選への立候補を表明している弁護士の橋下徹氏(38)が、平成11年に起きた山口県光市の母子殺害事件の裁判をめぐり、被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で視聴者に呼びかけたことに対し、全国の市民ら約340人が17日、「刑事弁護の社会的品位をおとしめた」として、橋下氏の懲戒処分を所属先の大阪弁護士会に請求した。
 懲戒請求書によると、殺人などの罪に問われている被告の元少年(26)=広島高裁で差し戻し控訴審が結審=の主張を弁護団が擁護することについて「刑事弁護人として当然の行為」と主張。橋下氏の発言は弁護士法で定める懲戒理由の「品位を失うべき非行」などにあたるとしている。
 橋下氏は、5月27日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ系)で、元少年の弁護団が1、2審での主張を上告審以降に変更し、殺意や婦女暴行目的を否認したことを批判。「もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」などと視聴者に呼びかけた。
 懲戒請求に対し橋下氏は「特定の弁護士が主導して府知事選への出馬を表明した時期に懲戒請求したのなら、私の政治活動に対する重大な挑戦であり、刑事弁護人の正義のみを絶対視する狂信的な行為」とコメントした。

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光市の被告弁護団と橋下弁護士の確執は以前から知っていましたが、特に興味もなかったのでこのブログではとりあげていませんでした。
が、今回の橋下氏のコメントには、同じ弁護士として強い違和感を感じたため、少し苦言を呈してみたいと思います。

上記報道によれば、橋下氏のコメントは、「特定の弁護士が主導して府知事選への出馬を表明した時期に懲戒請求したのなら、私の政治活動に対する重大な挑戦であり、刑事弁護人の正義のみを絶対視する狂信的な行為」とのことです。

まあ気持ちはわかります。
実際、府知事選に立候補したこのタイミングでの懲戒請求には何らかの意図を感じますし、同時に340人もの人間が懲戒請求を申し立てたというのも、背後に組織的、政治的な動きを感じます。
「政治活動に対する重大な挑戦」と言いたくもなるでしょう。

が、その後の「刑事弁護人の正義のみを絶対視する狂信的な行為」という部分はいただけない。

刑事弁護において、刑事弁護人は被告人の言い分を述べ、被告人の権利を擁護する役割を担っています。それは、少なくとも日本の刑事訴訟法においては、正義であるとか悪であるとかということを超えた、1つの役割なのです。

なぜこのような役割が刑事弁護人に与えられているかについては、「被告人の権利保障」、「適正な刑事手続の保障」、「多角度から事件に光を当てることによる真実発見」等の実質的根拠(それが真に「実質的根拠」たりうるものかどうかという吟味は必要ですが。)に基づく説明がされています。
このうち、「被告人の権利保障」や「適正な刑事手続の保障」は、憲法に由来するものであり(憲法31条以下参照)、その憲法を受けた刑事訴訟法、弁護士法により、刑事弁護人にその擁護の役割が課せられているものです。

刑事弁護人が、被告人の言い分を、(それがどんなに前後一貫しておらず、かつ荒唐無稽なものであっても)主張しないというのは、この役割を放棄していることになるのです。
役割を果たすことが、「一般市民の感覚から離れている」、「厚顔無恥」と言われてしまうのであれば、刑事弁護人としては、「だったらそういうことをしなくていいように、憲法を改正して、刑事訴訟法と弁護士法もついでに改正してくださいよ。」と言うしかありません(厳密には刑事被告人の権利に関わる条文の改正は、憲法の改正限界に引っかかってしまうと思いますが)。

「そのような憲法の規定自体がおかしい」、「なぜ犯罪者にわざわざ弁護人をつけてやらなければいけないのか」と思うのであれば、改憲運動を起こして刑事被告人の権利に関わる憲法の条文を改正してもらえればよいのですが、少なくとも現時点では、被告人の権利保障に係る憲法の規定は生きていますし、それに基づく刑事訴訟法、弁護士法も有効です。
そして法令が有効である以上は、刑事弁護人はそれにしたがって役割を果たすしかありません。

どうも橋下弁護士は、刑事被告人の弁解の権利が憲法上の権利であるということをすっかり忘れてしまっているような気がしてなりません。
刑事弁護人は、別に自らの信念や正義に基づいて弁護活動を行っているのではなく(もちろん、そういう人もたくさんいますが)、日本国の最高法規である憲法により、刑事被告人の権利を擁護する役割が課せられているから弁護活動を行っているのです。

正義か悪かという曖昧かつ相対的、主観的なものが、刑事弁護活動の形式的理由ではない以上、「刑事弁護人の正義のみを絶対視」という反論は的外れと言わざるをえません。
(まあ、340人が同時に懲戒請求をした、というあたりはある種「狂信的」ではあるでしょうが)。

もし、橋下弁護士が、「そのような憲法上の権利規定そのものが市民感情から乖離しており、正義に反する」とおっしゃるのであれば、是非とも改憲活動に勤しんでいただき、憲法を改正してください。
そうすれば、荒唐無稽な言い訳をする被告人の言い分を法廷で述べる必要もなくなり、刑事弁護人の羞恥心に対する負担もだいぶ軽減されると思います。

弁護士も人間。
ごくごく一部の変態を除いて、「甘えるつもりで殺す気はなかった」、「復活させるために死姦した」なんて弁解を真剣に法廷で述べることに羞恥心の疼きを感じない人などいないのですから。


志村先生の中国本 [日常]

なんとあの谷山=志村定理の志村五郎先生が中国説話文学に関する解説書をご出版されていた。

中国説話文学とその背景 (ちくま学芸文庫)

中国説話文学とその背景 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 志村 五郎
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/09
  • メディア: 文庫

出版年月は2006年9月。
1年以上も気がつかなかったとは不覚…

さっそくAmazonで注文。年末に一時帰国するときにインドに持ってこよう。
ちなみに、このAmazonのカスタマーレビュー、秀逸です。
超一流は裏芸でも超一流であるという意見に全面的に同意。
1/f ゆらぎの文体というのも絶妙な比喩。

それにしても、数論界の巨人が中国説話文学にもご興味をお持ちだったとは。
日本が生んだ至高の数学者の1人である志村先生が晩年に到達した境地に興味津々です。

久しぶりに、読むのが待ちきれないと思える本に出会えました。


差し入れ [日常]

高校の友人が差し入れということで、インドに漫画を送ってきてくれた。

「きまぐれオレンジロード」全巻。

そのセンスや良し。

夜一人で読んで、布団の上でもだえている30歳。


万有引力の法則 [日常]

Isaac Newtonが1687年に発表した"Philosophiae Naturalis Principia Mathematica"(「プリンキピア)」)。
彼はこの著作の中で、万有引力の法則と、それに基づく運動力学を提唱した。

「万有引力の法則」。
日本人なら誰でも子供のころに習う名前。
「ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て思いついた」という、あまりにも有名なエピソードとともに。

が、「万有引力の法則」を習ったその当時に、「なんだかわからないけどすごい発見らしい」というだけでなく、その意義を理解できた子供が何人いるだろうか。
そもそも、教える側の先生が、この法則の意義をどの程度理解しているだろうか。
かく言う自分も、文系の悲しさ、ごく最近まで意義を理解していなかったのだけど。

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ニュートンがプリンキピアにおいて万有引力の法則とニュートン力学を明らかにするまでは(ただし、万有引力の法則はニュートンの革命的着想というわけではなく、同時代の学者は漠然とではあるがほぼ同様の考えを抱いていた。もちろん、「漠然とした考え」と「著作において思考を明確化し、整理すること」との間にはものすごく高い壁があるので、その事実によってもニュートンの偉大さはいささかも損なわれることはない。)、天文学者たちは、「天上の星と地球上の物は違う法則で動いている」と考えていた。

つまり、空のどこかに境界線があって、それより上は天体用の運動法則に、それより下は地球用の運動法則に従うと考えられていたわけである。

ニュートンが生きた時代は、科学の発展は天文学とともにあったといっても過言ではない。
天体の運動の法則を明らかにすることには、疑いもなく当時最高の科学の1つであった。
ニュートンより100年ほど後に生まれた歴史上最も偉大な数学者の1人であるガウスも、後半生の40年間はゲッティンゲンの天文台で天体の運動法則を調べることに大きな力を注いでいる。

そもそも、コペルニクス、ガリレオ=ガリレイによる地動説が生まれてきたのも、「天動説だと天体の運行をうまく法則化できない」という理由による。
たとえば、「惑星がどのように動くか」ということは、天体を観測すれば記録できる。これは「事実」なので、すべての思考の根拠は、この観測結果によらなければならない。

天動説だと、この惑星の動きを法則化するために、天球上に周天円と呼ばれる補足的な概念を導入しなければならず、しかも1つの周天円だと計算結果と実際の天体の動きが一致しないので、複数の周天円を導入しなければならない。その結果、天球上に複数の周天円が並び、体系は恐ろしく複雑怪奇になる。
さらに問題なのは、そこまでして周天円で補足しても、実際の天体の動きと周天円モデルによる計算法則が完全には一致しなかったということである。

そこで思考を転回し、「実は太陽や惑星が地球の周りを回っている前提そのものが間違っているのではないか」として、地球が太陽の周りを回っているという前提で計算を行ったところ、周天円を導入した天動説モデルより遥かにシンプルで、しかも正確な結果が得られる計算法則が得られた。
つまり、地動説は、そもそも計算上の必要から生まれたものであって、宗教やイデオロギー(「太陽が中心であるべき」という主義主張)の産物として生まれたものではない。
カトリックの教義に基づく強固な反対、弾圧があったにもかかわらず、地動説が最終的に科学者に支持されるに至った理由は、まさにこれである。

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さて、ニュートンが万有引力の法則に着想するに至ったそもそもの動機は、ケプラーの法則にある。
ケプラーは、ティコ・ブラーエの天体観測記録から、惑星の運動を以下のように定式化した。

第1法則 : 惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く
第2法則 : 惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である
第3法則 : 惑星の公転周期の2乗は、軌道の半長径の3乗に比例する

過去の常識に照らせば、これはあくまで天体の動きを定式化したものにすぎず、「天体用の運動法則」にすぎなかった。
ケプラーが定式化した天体の運動と、「地球上で物が落ちる」ということとは、それぞれ全く無関係な法則に従っていると考えられていたのである。

ニュートンの万有引力の法則の発想の意義は、この天体の運動法則と、地球上で物が落ちるという現象とが、同じ法則に基づくものであることを明らかにした点にある。
宇宙において惑星が動くことと、地球上でリンゴが落ちることは、全く同じ「重力」=「万有引力」の力によって引き起こされるものであるということを示したのである。

地球上では物が落ちる 
→ 物は地球に引かれている 
→ このような物を引く力を持つのは地球だけなのか、他の惑星や太陽も同じ力を持つのではないか。星に限らず、すべての質量ある物は同じ力を持っているのではないか。
→ 太陽や地球を含む惑星がそれぞれ引き合っているとすると、なぜそれぞれがぶつからないのか。
→ それぞれの天体は、お互いに引き合う力とは反対の方向に働く力を持っているのではないか。
→ その「反対の方向に働く力」はどこから生まれたのか。
……

と思考を推し進めていった結果、天上の世界も地球上も、すべて同じ法則で動いているという発想に至ったのが、万有引力の法則の「発見」なのである。

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この発想に至っただけでも十分すごいが、さらにニュートンがすごいのは、その運動法則を数学的に定式化したこと。
つまり、「天体の運動と地球上で物が落ちることとは同じ原理で動いていますよ」と言うだけではなく、「その原理とはこういう原理で、こういう数式で計算できますよ」というところまで示したということである。

慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則を、「力」という概念(プリンキピアにおいては物体相互間の運動量の変動(交換)として定義される)を利用して、数学的に定式化したのがニュートン力学なのである。

運動を数式化できれば、「予測」が得られる。
たとえば、ある物体の重さとその物体にかけられる力が与えられれば、何分後にどの程度の速度でどこを動いているかということが計算できるのである(もちろん、摩擦等の問題もあるので話は単純ではないが)。

人間は、この「予測」に基づいて文明を発展させてきた。
ある行為を行ったときに、その結果として何が起こるかを、明確に予測できるということは、その予測できる人間に大きな利益をもたらす。
その「予測」は、近代以前は経験則によるものがほとんどであったが、近代では数学的な計算根拠によるもののほうが圧倒的に多い。

その究極の形の1つが、宇宙船の打ち上げで、あれは「どの程度の速度でどの方向に向かって打ち上げれば、目的地まで到達できるか」ということをすべて計算して発射されているのである。
たとえば、近年打ち上げられた土星探査機カッシーニ。
打ち上げの日は1997年10月で、土星軌道に入ったのは2004年6月である。
7年後の土星の軌道やスイングバイの角度等をすべて計算して、(微修正は行ったにせよ)概ね計算どおりに宇宙船を動かしたのである。

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現在の物理学では、ニュートンの万有引力は絶対的な物理法則ではなく、重力が弱い場合の一般相対性理論の近似であると考えられている(ちなみに、ニュートン力学は、速度が光速よりも十分遅いときの特殊相対性理論の近似になる。)。

ただ、人間が通常感じるスケールのものは、ほとんどすべてこの「近似」で解説できるため、相対性理論の発見は、いささかも万有引力の法則の発見の偉大さを減じるものではない。

プリンキピアが発行された1687年は、ちょうど日本の江戸時代の5代将軍徳川綱吉の時期にあたる。
日本で御犬様御犬様とやっていたのと全く同じ時代に、天体の運行と地球上の物理法則を数学的に定式化した本が発行されているということ。

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ここまで説明した後、先生はにっこり笑って生徒たちに呼びかける。

ね、ニュートンってすごい、万有引力の法則ってすごい、と思わない?


死ぬタイミング [日常]

「死ぬのにタイミングが良いも悪いもあるか」、というのは全くもっておっしゃるとおり、なのだけども。

あくまでも客観的な状況からして、「タイミングの悪い死」というのはあると思う。

たとえば、

生まれたばかりの赤ちゃんを残して、とか

自分でなければ回らない(少なくともビジネスとして成り立つくらいに効率的に仕事を回せない)仕事を抱えているとき、とか

重要な研究が完成する直前、とか

3億円の宝くじが当たった次の日に、とか。

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そう考えると、今の自分は死ぬにはいいタイミングかもしれない。

日本での仕事は全部整理し終えてきたし、

守るべき家族もいないし(幸い両親は健全)、

何か重要な研究の途上ということもないし。

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悲しんでくれる人はそれなりにいるんだろうけど、少なくとも他人に迷惑はかけずにすみそうだし、自分としてもあまり思い残すことはない。

いいタイミングだ。

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もちろん、死にたいと思っているわけでは全くないけれど、memento-mori ということで。


神の存在証明 [日常]

「閣下、a+b^n/n = x
故に神は存在す。如何?」

Leonhard Euler
エカテリーナロシア女帝の前にて、Denis Diderotに対して。

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(^nはn乗の意)

この人以外にはちょっと成立しえない格好良い証明。

あまり注目されないが、この言葉に敗北を認めたディドローもまた、只者ではありえないと思う(哲学者としての態度ではなく、真理に仕える人としてのそれにおいて)。
いくら「数学の素養がない」とは言え、「この数式が神の存在をどのように証明する?」などという月並みな反論をしなかったのだから。

ちなみに、a+b^n/n = x というのは、「オイラーがディドローをやりこめるために適当に言った何の意味もない数式」というのが一般的な見解。

でも、もしオイラーが a+b^n/n = x の代わりに e^iπ + 1 = 0 (πは円周率のパイ)と言っていたらどうだろう?
あるいは、ξ(2) = π^2/6 (ξはゼータ関数の意) なら?

たぶん、現代のほとんどの数学者は、「オイラーの言葉は真理である」と認めるんじゃないだろうか。

ディドローが屈したのは、a+b^n/n = x そのものではなく、a+b^n/n = x に象徴される、オイラーが積み上げ続けた神の存在証明に対してであったと思う。

神は細部に宿りたもう。

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数学クイズ。

次の命題が正か偽かを、30秒以内に答えてください。

「任意の2つの実数の和と差の積の絶対値は、その2つの数をそれぞれ二乗した数の差の絶対値に、常に等しい。」

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正解は正。

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問題文から数式が頭に浮かぶかどうか。

中学生で習う公式

(a+b)(a-b) = a^2-b^2

ちなみに、「絶対値」と付け加えたのは、問題文をシンプルにするためです(二乗前に差をとる場合と二乗後に差をとる場合の、引き算の対象の数を任意に入れ替えても成立するようにするため。)。
|(a+b)(a-b)| = |b^2 - a^2|


大前提を忘れない [日常]

シンデレラが魔法使いに文句を言う。

「どうして、わたしは12時までしか舞踏会にいられないの?」

魔法使いは答える。

「そもそも、おまえはなんで舞踏会にいられるんだね?」

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Gilbert Keith Chesterton


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